「人の権威の虚しさ」 06.02.26
ヨハネ19:1〜16
使徒信条には、ピラトの名が出てきます。私たちは、この歴史上の
人物の名を口にしながら、イエスさまの十字架による救いの出来事が、
想像の話ではないことを確認します。夢や幻ではなく、現実の出来事で
ある主イエスの救いには、確かさがあります。
ピラトは、ローマよって立てられた総督で、この世の権力の代表です。
そのピラトが、イエスさまを十字架につけて殺しました。
聖書は、この世の制度を重んじることも語ります(Tペトロ2:13、
ローマ13:1)が、それは絶対のことではありません。
いつの時代も、世の権力、国家は、神さまの御心に沿うことに対して
限界を持っています。それを担う人間には、神さまに背く罪があるからです。
教会は、ピラトの名を口にしながら人間の制度の限界をわきまえます。
この世に対して、預言者として神さまのみ心を伝える務めを果たす時が
あることを知って、それに備えるのです。
聖書に描かれるピラトには、私たち自身の姿が映し出されています。
彼は、権威を持っていると自称し、イエスさまを裁きます。
それは、私たちと無縁の姿ではありません。ピラトのように声高に言わない
にしても、だれでも自分が一番権威を持っていると考え、自分が最優先される
べきだと考えるのではないでしょうか。
他者を裁き、心の中で抹殺することがあるのではないでしょうか。
イエスさまに従うのでなく、自分がイエスさまの上に立ったように振舞うことが
あるのではないでしょうか。
ピラトは、回りの声に押し切られて、イエスさまを殺す決断をしまが、権威を
持っていると自称するだけで、実は振り回される人間の姿や、「仕方なかった」と
言い訳するしかない姿も、私たちと無縁ではありません。
ピラトは脆(もろ)さを抱える、弱い人間を代表しています。
イエスさまは、そんなピラトのもとに身を置き続け、「止めた」とは
おっしゃらないで十字架への道を進まれました。
「人間をどうしても救いたい」と願ってくださったからです。
そんなイエスさまの愛の深さに気付かされ、心が震えるのです。